“どんぐりと山猫”の解釈について、アンケートを実施します

一つアンケートというかご意見を募りたいと思います。

まず、回答される権利として、我々山猫合奏団版の“どんぐりと山猫”を聴いたことのある方達に限ります。

そうでなければ以下に述べるように、答える根拠がないからです(爆)

出来れば、というか、絶対に、お答えになる前に原作を読み返して確認しないでお答えいただきたいのです。

直感で答えていただきたいです。


客観的には、宮沢賢治の書いた文章に答えがあるのですが、実は、どんぐりどもの裁判の最中に、
「ここを何と心得る、しずまれ、しずまれ」
と怒鳴る人が居る
のですが、
我々の30年に渡る演奏の中で、実はメンバーの中で
「誰が言っているのか」
その認識に大きなズレがあったことが、この間の11/27に行われた“どんぐりと山猫”の公演であぶり出されてしまったのです。


ある語り手は、馬車別当だと思って語っており、もう一人の語り手は山猫だと思って30年間語ってきたことが(爆)

良く見ると、白石准の書いた現在使用されている印刷された楽譜にはその台詞を誰が言っているのかは指定されてなかったのです。

じゃあ、原作はどうなんだと、本を紐解くと、もちろんそこには書かれていました。

そして、初演当時の手書きの譜面(実際の自筆譜がどうだったか覚えてないが、片方の語り手が所蔵する書き込みのたくさんあるそれ)を見直すと、その台詞を言っている原作の登場人物に線が引かれ、別の人間に言わせていることにしてあったことがこの「騒動」の検証会議(爆)を兼ねていたFMつやま用の録音の時に判明しました。

しかしそれが作曲段階でなされた変更かというと、たぶん何回も演奏している間に変更され(しかも二人居る語り手の内の一人とだけ相談したふしがある)、我々としても、時期によって両方のつもりでやったということが推察されます。

原作にあることと白石准の作曲した意図とはなんらかの理由で変更されていたのです。
その事実について作曲者である僕は実は全然覚えていませんでした(爆)


直感的に、我々の演奏を聴いた時、どう思われたか、まあ一郎が言っていると思われる方は居らっしゃらないとおもうので、選択肢は2つ。

馬車別当が言っているのか。
山猫が言っているのか。

この場合の正解は原作の記述と何時だったにせよ、それを変更した白石准の解釈が矛盾していますので、選択肢のどちらも正解、不正解、を調べたいのではないので(爆)どうぞ、直感で答えていただきたいです。

何を知りたいかというと、我々の演奏から
どちらの登場人物を想像されていたか
ということが知りたいのです。

もしかして、語り手の違いに寄って言っている登場人物を区別して聴いてきたという人も希にいらっしゃるかもしれませんが、「いったい誰なんだ」という質問をかつて一度も受けた事がないので、たぶんそういう方はいらっしゃらないと定義して良いと思います。

万が一そういう解釈の方がいらしたら、コメント欄にその旨をお書きください。

ちなみにどっちが原作なのかを曖昧にするために、このページの表記とアンケートの選択肢の並びは敢えて変えてありますので、本当に直感でお答え頂きたいと思います。


ちなみに昨日僕がお世話になっているある劇団の納会に出たときに質問したら、ほぼ半々の解釈である意味安心したし、受け取り方の多様性に、今後コンサートの時のアンケートにこの項目は記述しても面白いかもしれないと思うようになりました。


お答えはこのブログのコメント欄にはお書きにならず、
お答えになるにはここをクリック
してアンケートのページに行ってください。

MerryChristmas

今年一年ご愛顧ありがとうございました。

おかげさまで、今年は白石准の書いた4つの作品がすべて上演され、なによりも、新作の“オツベルと象”を初演し、長年の懸案であった、“どんぐりと山猫”の木管五重奏版を実現でき、そして“注文の多い料理店”と“セロ弾きのゴーシュ”が、厚生労働省からお墨付きを頂いたことなど、様々な山猫合奏団にとって有意義な一年でありました。

来年も新作を含め独自の方針で僕らの創造物の情報を発信していきたいと思います。

本日は、仮想広告ブログのスタイルで投稿しました。
“どんぐりと山猫”Xmas Tree Joke

山猫合奏団の2作品が、厚生労働省から「社会保障審議会推薦児童福祉文化財」に認定されました。

7月に東京の市ヶ谷ルーテルで行われた、“注文の多い料理店”と“セロ弾きのゴーシュ”の公演が審査の対象になりまして、その結果、件名のように光栄な認定を受けました。

作曲した白石准としては、子供だけを念頭には作曲していませんし、今までの実績としては、一般客の前で演奏した割合の方が圧倒的に大きいのではありますが、こういう認定をしていただいて、もしかして、児童館などでの演奏機会が増えたらそれはそれでとってもありがたい事だと思います。

白石准のプライヴェートのブログにも報告しました。

2011/11/27;“どんぐりと山猫”チェロ入り三人語りヴァージョン初演は終わりました@「芸術の家」神奈川県相模原市緑区

山猫合奏団は、昨日2011/11/27(日)神奈川県の相模原市緑区、相模湖のすぐ側の藤野という風光明媚なところにある「芸術の家」という会場で行われた、「地球愛祭り」というのに、白石准の知り合いからお誘いを受け、出演してきました。

最近の記事でも紹介してきた通り、東京圏では初めてとなるチェロ入りの“どんぐりと山猫”で、語り手三人ヴァージョンの初演をしてきました。

しかも、宇夫方路の語り自体がが東京圏では初めての披露となりましたし、彼女の出来が非常に良かった事は作曲者としてとても嬉しく思いました。

本番はそれぞれの演奏者に割り当てられた時間(30分)の関係で一部割愛、いつものトークもなしで慌ただしく終わり、果たして、この催しの趣旨に役立ったかどうか皆目見当はつきませんでしたが、ホールの中には様々な出店もあり、環境に配慮した製品の販売や、無料で骨密度を測ったりできるコーナーもあり、我々も骨密度を測って、年齢相応だった人、凄く若かった人、異常に年取っていた人と様々で、仕事(ではなかったけど)というより、レクレイションで小旅行をした様な気分でした。

実際、終演後、一部の人間たちで側の温泉に入りに行ったり、その帰りに相模湖プレジャー・フォレストというところでイルミネーションを観たりして帰ったからです。


この記事を書いている白石准の、ここからは個人的感想を述べます。

山猫合奏団を主宰している白石准としては、今回の出演は、あくまで白石准の知り合いとの友愛関係から実現したもので、仕事では無かったけど出演したことには全く後悔してはいないし、演奏自体は多大なご協力の下に普通にやらせてもらって、上記のごとく環境の良い場所で楽しい時間を過ごさせて貰いましたことへの感謝をまず書いておきます。

しかし、僕らの演奏終了後、「地球に感謝、ありがとう」というメッセージのシュプレヒコールを100回以上リピートすることになった時は事前に聞いてなかったので、具体的なメッセージを限りなく繰り返して盛り上がるために音楽が使われたその時間はひたすら非日常的に立ち尽くす異邦人でした。

クラシックの音楽会の範疇の僕らですが、その中でも客席と一緒に歌うとか、客席で起こる手拍子というものをから距離を置いている身ですから、自分とは全く考えの違う人の考えを聞くのは時に許容すべきことだけど、その考えを客席と舞台が一緒に唱和する、しかも数回ではなくおびただしい回数というのは、たとえそれが自分と主張が同じでも僕らの好むやり方では無いので困惑していました。

作曲家である白石准の方針としては、音楽は何らかのメッセージを伝える手段になりうるけれども、それはあくまで音楽の中にあるもので、メッセージが音楽より先に着いているのではない立場に立っていますので、我々にとって「言葉」と「音楽」の関係が、

「言葉の直接的、具体的なメッセージを音楽で包み、その力を倍増して何か他人の生き方を変える提案をする」

ジャンルではなく、

「音楽の抽象性を言葉で彩る事により、その言葉が音楽なしには成立していない」

と思えるように、僕らにとっては

「言葉は常にフィクションであり、それ以上でもそれ以下でもない純粋な「音楽」の一部である」

わけで、山猫合奏団の立ち位置を改めて実感した次第です。

普段は自分たちだけでコンサートを構築しているので、コンサートの世界観も僕らのペースで展開できるのですが、音楽のスタイルだけではない根本的な立ち位置の違うジャンルの壁がある中で、同じコンサートで様々な立場の人が演奏した今回のような場合、自分たちの思惑とそれが全体の中で我々の立ち位置をどう意味付けられたかと思うと、ジャンルの違う人と一緒に何かをするというのはなかなか単純に思うほどは簡単なことではないなと思いました。

どちらにせよ集まった寄付が地球のために何らかの役に立つことを切に祈るばかりで、それに貢献できたらそれは我々の喜びとするところです。

いよいよ明後日“どんぐりと山猫”三人語り+Cello版の初演です

昨日最終リハーサルが行われ、また記念撮影をしてみました。

本来は中央にチェロの大島くんが座るヴァージョンと語り手二人の写真も撮るべきでした。

そうすれば“セロ弾きのゴーシュ”にも使えた。

27日の本番の日に、相模湖のそばで撮ることにしよう。

(白石准 記)

独自の音楽と朗読の世界