「楠定憲」タグアーカイブ

2011/05/01 川崎・しんゆり芸術祭2011 アルテリッカしんゆり

(本公演は終了いたしました。ご来場ありがとうございました。)

概要

‘,”,’

  • ‘,”); ?>
  • 公演名
    • ‘,’
    日時 “;
    $items = explode(“,” , post_custom(‘Date’));
    foreach($items as $value) {
    echo “

  • “.$value.”
  • “;
    }
    echo “

    “;
    }
    ?>

    場所
      [cft key=Place]
    料金
      [cft key=Price]
    プログラム “;
    $items = explode(“,” , post_custom(‘Program’));
    foreach($items as $value) {
    echo “

  • “.$value.”
  • “;
    }
    echo “

    “;
    }
    ?>


    関連リンク


    出演

    写真をクリックするとプロフィールをお読みいただけます。


    2010/11/17 オノマトペ@楠定憲の宮沢賢治考

    オノマトペonomatopeeフランス語
    オノマトペイアonomatopoeia英語

    擬音語・擬態語
     
    賢治作品の大きな特徴にこの擬声語の使用があります。そんなわけで山猫合奏団で上演している作品にどのくらい擬声語が使われているか読み返してみました。
    言語の専門家からは間違ってるよと言われるかもしれませんが、とにかく数えてみました。

     「どんぐりと山猫」 36語を55回
     「セロ弾きのゴーシュ」 46語を70回
     「注文の多い料理店」 20語を33回

    読なら10分程度、少し長めの「ゴーシュ」でも20分くらいで読めてしまう短い作品のなかになんともうまいぐあいに使っているのでした。たとえば「どんぐり」のなかで私の好きな場面で「まわりの山はみんなたったいまできたばかりのように【うるうる】もりあがってまっ青なそらのしたにならんでいました」というのがあります。なんとも青空の下の気持ちよさが倍増するような気がしませんか。

    こんなのもあります。山猫の登場のところで「そのとき、風が【どうと】吹いてきて草はいちめん波だち…」とあるのですが、これが「そのとき、強い風が吹いて来て…」となっていてはいきいきとした自然の動き変化が身近に感じられないように思います。人と動物や自然の関係を考えさせる賢治の作戦なのかもしれません。

    2010/10/30 俺は読んでない語っている@楠定憲の宮沢賢治考

    ちょいと訳あって賢治作品のいくつかを読んでいたのですが、読んでいるうちに「あれ俺は読んでない語っている」と思ったのです。
    黙読をしていても自分に自分が語っているようで、声に出してみると誰もいないのに物語を伝えようとしているのです。
    ひょっとすると賢治は書いているのではなく、語っていたのではないかと思ってました。それは賢治の仕掛けではないかとも思ったりしていたのですが、賢治についての関係書をめくっているとき「賢治童話は一種の語りの世界であってしかもその語り口の素晴らしさといったら類をみない」というのを目にしました。
    賢治批判を書いている人でしたが、この点だけは「賢治は天才だ」と認めてましたね。

    そう賢治は自らが語っていたのだ。語られるように、彼の発する言葉のつらなりはつねに音になって空間を飛んでいるように仕組んでいたのだ。
    昔アングラ劇をやっていたころ賢治の詩を元にして構成された芝居をやったことがあって俳優たちの「声」の出し方が独特だったなあ。思い出した。

    以前宮沢家の宗旨換えのことを書きましたが、浄土真宗から日蓮宗に改宗したのは賢治の死後18年経ってからでした。生前と思って書いてしまいました。ごめんなさい。

    2010/10/17 読むも語るも@楠定憲の宮沢賢治考

    昨日の夕方高山正樹氏がゲスト出演する朗読の舞台を観て(聴いて)きました。
    山猫合奏団の情報ブログに今回の出演への経緯が書かれていましたが、実におもしろい20分余りのステージでした。

    落語のネタを“語る”いうユニークな試みゆえにアプローチのむつかしさを思います。

    ところで昨今の読み聴かせをはじめ朗読ばやりはどうなんでしょう。読むというのをお手軽に感じているのでしょうか。
    ちなみに「口」の語源は「神への祈りの文である祝詞を入れる器の形」(白川 静)で、人の口の形ではないらしい。つまり語るその人の考えていることや向かう方向が映しだされるものなのです。

    とはいうものの、書かれたものを読むにしろ映像・所作・絵はたまた音にするにしろその振る舞いを構想するのがいいんだな。

    それにしても昨日の不入りは何だ。さみしい。実にさみしい。朗読は人のこころを明るくするものなのに。

    くす さだのり