オツベルと象

宮沢賢治シリーズ第4弾

原作 宮沢賢治
作曲 白石准(2011年に作曲/2011年初演)
編成 語り2名(登場人物が男性ばかりなので男性の語り手が必須。一人はトロンボーン持ち替え) チューバ1名(アコーディオンか鍵盤ハーモニカ持ち替え) ジャズベース1名 ピアノ1名
内容 ある日、オツベルのところにやってきた大きな白い象。
オツベルにうまくだまされ過酷な労働を強いられる。
はじめは楽しく働いていた白象だったが…


大きく分けて三つの楽章から構成されている一時間に迫る山猫合奏団最大の作品。

余談ですが、実は作曲者白石准が中学校の時の教科書にでて触れた最初の宮沢賢治作品でした。
(そのときは、「オッペルと象」となっていました。)

楽器は、最も大型で低音の金管楽器チューバと、ジャズベースとピアノというユニークな「低音トリオ」という編成。


今まで書いて来た3つの宮沢賢治作品(“どんぐりと山猫”、“セロ弾きのゴーシュ”、“注文の多い料理店”)は、元々語り手は一人という前提で作曲されていました。

山猫合奏団が現在の形になって、語り手を二人でやることが標準になっていますが、それらの作品は新たな演出として一人で語っていたものを二人に分けるようになったわけです。

しかしこの“オツベルと象”は、もともと二人で語る事を前提として書かれた最初の作品です。
故に、この作品は一人では語れません。まさに山猫合奏団の象徴的な作品です。


なぜ、楽器がチューバとジャズベースだったのか。

一人は主役である白い象の象徴を、低音楽器で、聴覚的にも視覚的にも表したかったのです。(出来れば太った体型の男性の奏者が望ましい(#^.^#))
象の象徴として、白石准が選んだのは、オーケストラでも一番低い音を担当する楽器、チューバでした。

一方、ジャズベースの役割は、他の登場人物の存在の象徴という訳ではありません。
ピアノと共に、この作品全体を支配している独特の「韻を踏んだ文体」のリズム感や拍子感を強調するためです。

もちろん、見た目も大きいので象のストーリーにはまさにうってつけでした。


この文体の個性について。
これ以前に書いた三つの作品とはまったく違う文体のリズムがこの作品を際立たせていると作曲した白石准は考えました。

最初の“どんぐりと山猫”の音楽は、情景や心象風景を象徴的に言葉に載せることを考えていました。

次の、“セロ弾きのゴーシュ”では、明らかにゴーシュが演奏する楽曲を作曲しました。

そして、“注文の多い料理店”は、深い森の雰囲気を提示し、異世界に入っていく心の準備、そして現実に戻ってくるまでは、山猫の張り紙を、山猫の歌という形式にしてメッセージの中にある山猫の気持ちを音楽にしました。


この“オツベルと象”に於いて、まるでオペラの様に徹頭徹尾、言葉は音楽とシンクロさせています。

もともとこのストーリーの展開もドラマティックですが、それ以上に文体自体が、音楽的に聞こえるので、そのまま音楽に致しました。
故に、最後の場面、初めて象のモノローグが音楽から解放され、沈黙の中で語られるときの状況、意味がはっきりすると思ったのです。

そして、謎の最後の一行。まさに異化効果というか、映画で言うとカメラの位置が突然変わる衝撃、それも誰に言わせるのかということを綿密に考えてみました。
常に新しく作品を書くときには、初めての試みをしたかったという点では作品の個性の描き分けも出来たかなと思っています。


前の三つの作品は、もちろん白石准のオリジナルの音楽ですが、ある意味、朗読と音楽を実践されている他の団体の試みとそれほど差異はないかもしれません。

しかし、この作品は、我々山猫合奏団が目指す一つの到達点であることは間違いありません。
その証拠にこれ以降書かれた、詩集シリーズは、この作品の音楽と言葉がシンクロするという作風を踏襲しています。


初演で演奏した象の象徴、チューバの古本大志は、その体の大きさからしても、楽器の大きさからしても、語り手の高山正樹が言葉として演じる白象の印象的な歌やセリフと溶け合う存在になっています。

一方オツベルのセリフは、楠定憲が担当しています。

二人で交代交代語られる、台詞では無い、物語の状況を説明する部分の力強い韻を踏んだ文体を、ジャズのリズムでベースの稲垣護とピアノの白石准が支えています。


語って居る方からしても、この演目の時は、「朗読」という表記ではやっていることの説明としては十分でないと考え、これ以降主催の公演では大体「言葉:楠定憲、高山正樹」となっているのです。


二人で語られる以上、一人の朗読では不可能な、合唱で使われるカノン(輪唱)を複雑にした手法なども駆使していることにより、明らかに朗読や芝居の台詞からもっとも離れた、言葉だけでメロディーのない合唱の様になっている部分があり、今後の山猫合奏団の作曲の可能性にも活かせるものになりました。

まさに言葉を音楽として扱っている、音楽作品であることの証明です。
リーディング・オペラとでもいいましょうか。


そして、最後に、
この作品の中では通常ではありえない楽器の持ち替えが一部の奏者、役者に求められています。

まず、チューバ奏者の古本大志はアコーディオンを演奏することになっている(できたので)のと、彼にもごく一部、台詞があてがわれています。
楽器の持ち替えと、その演奏される場面、そして台詞の意味するところはとても重要で、それはご覧になって頂いた上で解釈していただきましょう。

そして語りの楠定憲も、白象が助けを求めて象の大群が押し寄せてくる「象の騎行」(作曲家としては、ワーグナーの有名な「ワルキューレの騎行」のイメージらしいのでこの名が付いているらしい)の場面でチューバと共に、トローンボーンの名演奏を披露します。

楠定憲のトロンボーンは、最近“どんぐりと山猫”の「きのこの楽隊」の部分でそのエキセントリックな楽隊を表すためにちょっとだけ吹いては居ましたが、この作品の中ではとても重要な演奏家としても存在しています。


俳優は楽器となり、言葉が音楽になる。山猫合奏団のめざす、音楽と語りの不思議な化学反応が、この一時間近い大きな新しい作品として生まれました。
山猫合奏団のレパートリーのなかで、もっとも激しく情熱的な作品です。


将来的にはドラムスを追加できないか白石准は思案しています。
そして、初演は、象の象徴をチューバで発想しましたが、今後、バス・トロンボーンだったり、バリトン・サクソフォーンでやったらどうなるかと白石准は考えています。


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